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福岡高等裁判所 昭和60年(う)643号 判決

控訴人 被告人

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役二年六月に処する。

原審における未決勾留日数中六〇日を右刑に算入する。

押収してある果物ナイフ一本(当審昭和六一年押第一一号の一)及び果物ナイフの鞘一個(同押号の二)を没収する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人出雲敏夫が差し出した控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、検察官小浦英俊が差し出した答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用し、これに対し、次のとおり判断する。

控訴趣意中事実誤認の論旨について

所論は要するに、原判決は、本件犯行時被告人が田邉キミ子(以下「キミ子」という。)に対して未必的殺意を有していたとして殺人未遂の事実を認定したが、被告人には未必的にもキミ子に対する殺意はなく、原判決は本件果物ナイフの性状、攻撃の態様、傷害の部位、程度等の外形的事実を不当に重視した結果事実を誤認したものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから破棄を免れない、というのである。

そこで、記録及び証拠物を精査し、当審における事実取り調べの結果を併せて検討するに、本件犯行時被告人がキミ子に対して未必的殺意を有していたことは、原判決が「殺意を認定した理由」において説示するとおり、その挙示する証拠によつて優に認められる。

所論は、被告人の本件所為は、キミ子を脅して謝罪させるべく、同女の頸部に果物ナイフを突きつけたところ、逆に罵倒されたので、痛い目にあわせて反省させるために、その頸部をナイフで刺したというものであつて、未必的にも殺意はなく、同女に重傷を負わせるに至つたのは、飲酒の影響によつてつい力が入り過ぎたことによるものである、というが、関係証拠によると、被告人は、本件前日の午後一〇時ころから本件当日の午前四時ころまで、キミ子の経営する「ナイトパブカトレア」で飲酒しているものの、キミ子によつて同店から閉め出されたのち、二階建て建物の壁をよじ登つて二階にある同店の窓から店内に侵入し、また、本件犯行及びその前後の状況について詳細な記憶が保持されているなど、運動能力、判断能力が飲酒のために低下していた形跡は全く窺えないこと、本件の刺突行為は、仰向けになつているキミ子の脇に中腰になり、右手に握つた本件果物ナイフを同女の頸部正中付近に突きつけた状態のまま、激情にかられ、右手に力を込めてその頸部を右ナイフでひと突きしたというものであることが各認められ、以上の事実によれば、本件犯行の際、被告人がキミ子に対して単なる傷害の故意を有していたにとどまり、あるいは、飲酒の影響によつて意図した以上の力が加わつたとみる余地はなく、右所論は採用できない。

以上の次第で、原判決の殺意認定に所論の如き誤りを見出すことはできず、論旨は理由がない。

次に、職権をもつて原判決の事実認定及び法令の適用の当否を検討するに、原判決は、「罪となるべき事実」において、殺人の障碍未遂の事実を認定し(「罪となるべき事実」は単に未遂の事実を認定するのみであるが、「法令の適用」と併せ考えると、障碍未遂を認定していることは明らかである。)、「法令の適用」において、中止未遂に関する刑法四三条但書及び刑の減軽に関する同法六八条三号を適用していないが、本件については中止未遂を認めるのが相当であり、原判決には事実誤認及び法令適用の誤りがあるといわなければならない。すなわち、

本件は、被告人が、未必的殺意をもつてキミ子の頸部を果物ナイフで一回突き刺したが、同女に加療約八週間を要する頸部刺傷等の傷害を負わせたにとどまつたという事案であるところ、関係証拠、とりわけ、被告人の原審公判廷における供述、検察官(昭和六〇年七月二〇日付)及び司法警察員(同月一八日付)に対する各供述調書、被告人作成の同年八月二六日付上申書、田邉キミ子の検察官(同年七月一八日付)及び司法警察員(同日付)に対する各供述調書、医師廣瀬隆之作成の診断書及び同人の司法警察員に対する供述調書、松口日出夫の司法巡査に対する供述調書、司法警察員ら作成の現行犯人逮捕手続書によると、被告人は、キミ子の頸部を果物ナイフで一回突き刺した直後、同女が大量の血を口から吐き出し、呼吸のたびに血が流れ出るのを見て、驚愕すると同時に大変なことをしたと思い、直ちにタオルを同女の頸部に当てて血が吹き出ないようにしたり、同女に「動くな、じつとしとけ。」と声をかけたりなどしたうえ、「ナイトパブカトレア」の店内から消防署に架電し、傷害事件を起こした旨告げて救急車の派遣と警察署への通報を依頼したこと、被告人は、その後「救急車がきよるけん心配せんでいいよ。」とキミ子を励ましたりしながら救急車の到着を待ち、救急車が到着するや、一階出入口のシヤツターの内側から鍵を差し出して消防署員にシヤツターを開けてもらい、消防署員とともにキミ子を担架に乗せて救急車に運び込み、そのころ駆け付けた警察官に「別れ話がこじれてキミ子の首筋をナイフで刺した」旨自ら告げてその場で現行犯逮捕されたこと、キミ子は直ちに友田外科医院に搬送されて昇圧剤の投与を受けたのち、同日午前七時すぎころ廣瀬医院に転送されて廣瀬隆之医師により手術を受けたものであるが、本件の頸部刺傷は深さ約五センチメートルで気管内に達し、多量の出血と皮下気腫を伴うもので、出血多量による失血死や出血が気道内に入つて窒息死する危険があつたこと、以上の事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠は存しない。

ところで、中止未遂における中止行為は、実行行為終了前のいわゆる着手未遂においては、実行行為を中止すること自体で足りるが、実行行為終了後のいわゆる実行未遂においては、自己の行為もしくはこれと同視できる程度の真摯な行為によつて結果の発生を防止することを要すると解すべきところ、本件犯行は、キミ子の頸部にナイフを突きつけて同女を脅していた際、一時的な激情にかられて未必的殺意を生じ、とつさに右ナイフで同女の頸部を一回突き刺したというものであつて、二度、三度と続けて攻撃を加えることを意図していたものではなく、右の一撃によつて同女に失血死、窒息死の危険を生じさせていることに照らすと、本件は実行未遂の事案というべきである。そして、前記認定事実によれば、被告人が、本件犯行後、キミ子が死に至ることを防止すべく、消防署に架電して救急車の派遣を要請し、キミ子の頸部にタオルを当てて出血を多少でもくい止めようと試みるなどの真摯な努力を払い、これが消防署員や医師らによる早期かつ適切な措置とあいまつてキミ子の死の結果を回避せしめたことは疑いないところであり、したがつて、被告人の犯行後における前記所為は中止未遂にいう中止行為に当たるとみることができる。

次に、中止未遂における中止行為は「自己ノ意思ニ因リ」(刑法四三条但書)なされることを要するが、右の「自己ノ意思ニ因リ」とは、外部的障碍によつてではなく、犯人の任意の意思によつてなされることをいうと解すべきところ、本件において、被告人が中止行為に出た契機が、キミ子の口から多量の血が吐き出されるのを目のあたりにして驚愕したことにあることは前記認定のとおりであるが、中止行為が流血等の外部的事実の表象を契機とする場合のすべてについて、いわゆる外部的障碍によるものとして中止未遂の成立を否定するのは相当ではなく、外部的事実の表象が中止行為の契機となつている場合であつても、犯人がその表象によつて必ずしも中止行為に出るとは限らない場合に敢えて中止行為に出たときには、任意の意思によるものとみるべきである。これを本件についてみるに、本件犯行が早朝、第三者のいない飲食店内でなされたものであることに徴すると、被告人が自己の罪責を免れるために、キミ子を放置したまま犯行現場から逃走することも十分に考えられ、通常人であれば、本件の如き流血のさまを見ると、被告人の前記中止行為と同様の措置をとるとは限らないというべきであり、また、前記認定のとおり、被告人は、キミ子の流血を目のあたりにして、驚愕すると同時に、「大変なことをした。」との思いから、同女の死の結果を回避すべく中止行為に出たものであるが、本件犯行直後から逮捕されるまでにおける被告人の真摯な行動やキミ子に対する言葉などに照らして考察すると、「大変なことをした。」との思いには、本件犯行に対する反省、悔悟の情が込められていると考えられ、以上によると、本件の中止行為は、流血という外部的事実の表象を契機としつつも、犯行に対する反省、悔悟の情などから、任意の意思に基づいてなされたと認めるのが相当である。

以上の次第で、本件については中止未遂の成立を認めるのが相当であり、原判決は中止未遂を障碍未遂と誤認し、その結果刑法四三条但書、六八条三号を適用しなかつたもので、これらの誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄を免れない。

そこで、量刑不当の論旨に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条、三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書にしたがいさらに自判する。

罪となるべき事実と証拠の標目については、原判決の「罪となるべき事実」末尾から三行目(記録二三丁表六行目)の「突き刺したが、」の次に、「犯行を任意に中止したため、」と挿入し、「証拠の標目」に司法警察員ら作成の現行犯人逮捕手続書を加えるほか原判決と同一であるから、ここにこれを引用する。

右の事実に法令を適用すると、被告人の判示所為は、刑法二〇三条、一九九条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は中止未遂であるから、同法四三条但書、六八条三号により法律上の減軽をし、その処断刑期の範囲内で量刑すべきところ、原判決が「量刑の理由」において判示する本件犯行の罪質、態様、動機及び結果並びに犯行後の情況、被害者の被害感情などに徴すると、その刑責は重大といわなければならず、他方、本件が中止未遂に終わつていることや、被告人がその後も反省の念を深めていることなど被告人に利益な事情もあるので、これらを総合考慮したうえ、被告人を懲役二年六月に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中六〇日を右刑に算入し、押収してある果物ナイフ一本(当審昭和六一年押第一一号の一)は、判示犯行の用に供した物、右ナイフの鞘一個(同押号の二)は右ナイフの従物であつて、いずれも被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項本文によりこれらを没収し、原審及び当審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項但書を適用していずれもこれを被告人に負担させないこととする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 淺野芳朗 裁判官 川崎貞夫 裁判官 仲家暢彦)

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